「いかに戦争は描かれたか」村田真編集・BankART1929・2017年4月

林洋子「藤田嗣治ー二つの世界大戦を経て」

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藤田の世代、一八八〇年代生まれの人たちは、ピカソにせよモンドリアンにせよ、二十世紀のアヴァンギャルドとして名前を残した彼らは人生で二度の世界大戦を経験しています。第一次世界大戦は二十代から三十代に、第二次大戦は五十代から六十代にかけて。若いときには、ヨーロッパ圏の人であれば出征しているケースが多いですが、二度目には兵士として年を取りすぎていたので、体制側につくか、つかないかは別にして、絵筆によってなんらかのかたちで戦争に関与していった世代にあたります。 

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藤田は第一次大戦中ずっとヨーロッパにとどまり、始まりから最後までいた稀有な日本人、異邦人でもあります。藤田の文章を挙げておきます。「私程、戦に縁のある男はない。一九一三年初めて巴里に来て、一年目に欧州大戦争にぶつかり」(中略)「日本へ帰れば日支事変に会い、昨年(一九三九)五月巴里に来て、この年の九月にはまた戦争にでくわして」(中略)「まるで戦争を背負って歩いている男だ」 

P64 

両大戦を比較してみると、アヴァンギャルドたちは、第一次大戦を歓迎している。閉塞を打破するという意味で、絵筆を置いて兵士として出征して、ドイツ表現主義とかイタリア未来派の人とか、詩人のアポリネールも頭に弾が当たって死んでしまいました。第一次大戦を経験した人は心を病んだり絶望的な気持ちになって、第二次大戦は亡命したり主体的に関わることを避けたとしたら、第一次大戦は異邦人として見る人だった藤田だけが、第二次大戦では日本が当事者国になったということもあって、ひとり前のめりだったという特殊性があるのかなという気がします。(中略)日本が特殊なのは、島国なので海外からの輸入が途絶えると画材が窮乏したこと。油絵というのは配給品になっていくので、絵を描き続けるために国に協力することが、アメリカよりもフランスよりも、ドイツよりも強かったのではないでしょうか。