呉座勇一「戦争の日本中世史」新潮選書2014.1.

同じ著者の「応仁の乱」が面白かったので読んでみたところ、だいぶ若書きというか暴走気味で「学術的な歴史本」としては微妙なのだけども、それゆえに興味深いところがあるなあと思ったので、主にそちらについて。
応仁の乱」のほうは漠然とした総論で大づかみに語られる日本史上の一大エポックを細かい事件経過で綴るというもので、こちらは著者のやるべきスタイルが確立した、とても良い本だった。
一方、それ以前に書かれてるこちらの本は、たぶん若手が張り切りすぎて空回りしてるんだろうなあ、もしくは時間も準備もないまま慌てて書いてしまって取り繕いようがない、という感じの力み具合があって、個別の記述は面白いところも多々あるんだけれども、全体をまとめようとして導入した視点というか史観が「戦後のマルクス主義階級闘争史観の批判」で、著者自身も「本書は非常に偏っている」とか「一種の思考実験」とかエクスキューズを述べてるんだけども、著者自身が言うような「結論に至るまでのプロセス」の開陳というよりは、やっぱり「階級闘争史観うざい」以外は何も言ってないような、まとまりのない文章になってしまってる。本人もまとまってないなあと自信がないから後書きでエクスキューズをつけたと思う。
まあ歴史本はよくこういうのあるんだけども、今回ちょっと面白いなと思ったのは、この赤裸々なアンチ階級闘争史観というアピールそれ自体が意味するとこである。
 
話を進める前に大ざっぱに紹介すると語られてる時期は元寇から応仁の乱までで、「戦争の」と書いてあるとおり主に軍事行動を切り口に語ろうとしてる。
んだけど、個別エピソード紹介は面白い一方、文章は一般紙のコラムのようなフランクさで書かれており、主題は不明瞭。厳密な考証や調査に基づいた論文じゃなくて著者の自分の中の「こういう視点はどうか」という提案を、概説として一定の論旨を用意しないままに書いたのだろう。裏付けが少しばかり足りない推測に頼った部分が多いので真面目な文体を避けて、あえて極度にフランクな文体に振り(ネット上のブログ記事みたいなユルい文章である)、全体としてのテーマに欠けたまま個別のエピソードを並べてしまったがために、「アンチ階級闘争史観」という著者の「出発点」がそのまま全体を通したテーマとなってる。
つまり、「マルクス主義史観は革命が好きすぎて、下から上への権力奪取の下剋上の図式を何にでも当てはめようとするから駄目だ」という、まあ、それ自体は妥当な意見に基づいて色々と切り込んでいくのだが、いかんせん概説的な広い範囲の本なので切込が半端なのと、文体がフランクにすぎるのとで、専門領域とおぼしき題材ではグネグネと小理屈をこねて先達の「階級闘争史観のダメさ」をあげつらっている一方で、専門領域外とおぼしきとこでは非常に雑にさっさと話題を切り上げて終わらせ(つつも階級闘争史観批判は欠かさず)、ツッコミの濃淡が極端すぎてバランスは無いに等しい。
その結果「いや、室町期のここで、そこまで深くグネグネと理屈を考えるなら、さっきサラッと流した鎌倉の話題も同じぐらい理屈をこねろよ」となり、言うまでもなく「自分に都合のいいとこだけ深く理屈をコネコネしてる」よーな形になっていて、それが「階級闘争史観への批判」と結びついて語られるので、まずもって、この本をタネに冷静に何かを語るのは難しい、ということになってる。
 
こう書くと「つまりダメな本なのだな」となるのだが、個別の記述は面白いし、それ以上に面白いのは「階級闘争史観へのアンチの身振りから見えてくる、現代の問題」だ。
「アンチ階級闘争史観」自体は、およそ著者だけの話じゃなく、ここしばらくのトレンドだと思われる。著者はそこから「下剋上という単語にドリーム盛りすぎだろ」とあっちこっちにケチをつけるのだが、その際に「下剋上でなければどういう行動原理で戦ったのか・生きていたのか」というアンサーとしては「受動的に、しょうがないから、そうするしかないから」という読み筋を提示してくる。この、下剋上やアグレッシブさを排除して、ひたすら受け身で描かれる中世武士の姿が、なんというか「現代の我々の置かれた姿の投影」そのもの過ぎるのである。鎌倉期の中ごろに農地開発が一段落して武士の土地相続の方法が変わったあたりの「武士とか悪党とかにカッコよさ求めてんじゃねーよ。そんなドリームな話じゃねーんだよ」という解説を読んでいると、「上の世代の歴史学者たちは経済発展のなか、人口増で大学もどんどん増えてポストも潤沢で下剋上ドリームとか言ってられるほど余裕があったんだろうけど、俺らの時代は少子化で大学内でポストもなくてギリギリでサバイブしてかないとならないんだよ」と吐血気味に感情移入して描き出してるようにしか見えなかったりする。
 
著者は「戦後のマルクス主義史観は革命が好きすぎ・下剋上にロマンを求めすぎだろう」と批判するわけだが、言ってしまえば戦後の混乱期は西武の堤や東武の五島に代表される、下剋上そのままな「成り上がり」を実践してる人たちが目立つ時代であり。「革命が好き」というより実力で成り上がっていく時代の空気を学術論議に反映させるにあたって、使えるのがマルクス主義史観という方法論だった、という気がする。
また、明治の文明開化から19世紀的な進歩主義を素直に取り入れ、日中戦争第二次大戦の軍事的拡大まで拡張拡大、文明化に進歩が当たり前の流れの、その19世紀的な「理性の砦」の最後の牙城がマルクス経済学だったわけで、ただ単に研究上の弊害にうんざりさせられてるからというだけで「マルクスうざいうざい」と言うだけでは話にならないというか、ではマルクスを否定したがる自分らの位置づけはどこになるのか、といったときに「つまり不景気な時代の影響を受けて、中世の武士も不景気な思考してたと云いたい現代の学者たち」という僕あたりの雑なツッコミに反論すべき論理背景を、本書では全く用意してないように見受ける。これは、「応仁の乱」では抽象的な議論から一転して、史料に基づいたカッチリした記述に戻るのを見るに、著者がアレでナニな人である、という話ではないと思う。世間の「「政府を批判することしかできないで自分の意見や政策を持たない左翼」を批判することしかできないアンチ左翼」に近いような、「「国家・政権中心の歴史観を批判するマルクス主義史観」を批判することしかできないアンチマルクス史観」に偏らざるをえない寄る辺のなさが露呈してるのではないか。
 
本書のもにょり感は、きちんとした学術的訓練と実績を積み上げているはずの学者さんの、「マルクス主義史観への批判」という、一見して妥当かつ正当な実証主義的・史料批判をきちんととった学問的な流れの背景にあって、ともすれば議論を誘導しかねない、論理の根幹をなすものの「なにもない」感が、はからずも滲み出た好サンプルなのではないか。
まあ、そんなことを思った次第。