いやだいたい地の文と台詞で分類てのが変で

 小説の側からすりゃ台詞は地の文の変形で。逆に、劇だとすれば一人称で視点人物でプレイヤーキャラクターであるようなのが会話に参加してしまうとか、ありえないし。演出は出来るだろうけど、会話中の人物が一人称ではいられないよね。現在進行形で会話の当事者でありながら語りの一人称でいるってのはそれなりに迂回した複雑な文脈が必要なように見える。

 で。

 誰に向けているかによって台詞の質は大幅に変わるでしょ。ヒロインの言葉は観客に向かってるのか「僕」に向かってるのか。ゲームていう枠組みが問題になるのはまさにそこで。パラメーターもエンカウントもマップもないノベルゲームでゲームを形づくることを求められた文章がどっちに行くのか。観客じゃないよね、観客なんていないんだから。ゲームのプレイヤーはゲームの内側に立つことを求めるわけで、台詞もそれに準じて内側から眺めるようなのを求める。それは舞台劇のような台詞の応酬にはならないでしょ。もちろん僕らは内と外と必要に応じて様々な立場からコトバを眺めるけど、文章や台詞の応酬の行方を決めるラインはやっぱり一つで、それは観客ラインじゃない。普通の作劇だとそのラインにさらに外から働きかけて行方を定めるために作為的なイベントが要求されるんだし、その作為を目立たなくするためにリアリティなるものも要求されたりする、僕はそういう流れだと思ってる。そして、作為はつまりゲーマーからすればアンフェアな後だしジャンケンなわけで。

 だから、ONEてのは台詞の応酬が観客のほうを向いてて、なおかつフェアなゲームであることに拘ろうとしたから、ヒロインと強制的に別れるしかなかった。

 んで、全部が永遠行きできるわけじゃない今のノベルゲームって、選択肢も無くして主人公にも立ち絵を与えたりもして、そうすると共通パートと個別ヒロインパートが前後で断絶したりするわけじゃない。「共通パートが一番面白い」なんて言われたりもしてさ。「嬉遊曲」ではヒロイン分岐で最初からヒロイン一人称を導入して流れをぶった切ったけど、そこまで意識的でなくてもシナリオ分岐がシナリオ断絶を意味するようになっちゃって。あるいは、作為を導入し得ない状況にきちんと向き合った結果として「空気ゲー」「雰囲気ゲー」て評価されたり。シナリオを語りたがる人たちは、そこんとこどう考えて言ってるんだろ、てのがね。