続き

 実際の事件をゲームにしてるというと、まず思いつくのは戦術シミュレーション。第二次大戦とか、日露戦争とか、湾岸戦争とか。

 んで、プレイしてる人たちが悪ノリして軍服や勲章をつけて右手を高々と挙げて「じーくはいる」言ってる姿は見慣れた光景でした。昔「ここがヘンだよ日本人」てバラエティ番組で、そーゆー制服をつけてる人を呼んで東欧やイスラエルの人やドイツの人とやりとりさせるとゆー悪趣味な企画をやってましたけど、渋谷の駅前で酔った勢いで「じーく」は、今から考えるとヤバかったよなー、とか。

 ま、コスプレはゲーム本体には関係ありませんが、光栄のゲームが中国でバッシングされるニュースは見かけたことがあります。

 前置きはともかく。

 ゲームとして実際の事件を扱うのは、現状だとまずありえないと思うのですが。でもコロンバイン高校RPGを作ってしまった奴はいる。作ること自体は表現の自由として許容されるにしても、それを作ることに対して評価して積極的な意義を与えたりするのは僕は危険だと思ってる。

 じゃあ、ただ無視すればいいのかというと、多分この先、無視できなくなるんじゃないかとも思ってる。僕からすればゲームはどこまでもゲームで、遊びで、娯楽であって、その先を求めるのは相当に危険なことだと思っていても、時折に耳にする、海の向こうのゲームに対する考え方からすると、そうじゃないらしく。

 前に「アート」の言葉の使い方を高橋直樹氏のとこに書き込んだのだが。

 海の向こうのゲームデザイナーはゲームのことをアートと呼ぶらしいのだが、どうも嫌な響きを感じるので、これを書くのだが、コロンバイン高校のゲームを作ってそれが「アート」であるか否かってのが向こうでは議論になってしまう。んで、今月にも向こうのゲーム学者メインで主催されるゲーム学会が東京でやるわけで、割と身近なとこにそーゆー価値観が黒船で乗りつけてくる可能性は十分あると思う。

 ゲームで感動できるのかなんて、いつの話題だよみたいなことを、学者の肩書きのガイジンが東京で討論してみせたりするわけです。で「学」の枠組みを決めるのはあっちの国の人たち。つか、「学」にするために扱うのは「アート」じゃなきゃいけないという関係。

 いや今時どーゆーガイジン嫌いな文章よ、とは思うが、それでも書かずにはいられない。

 嫌な時代だよなぁ。